中国と生きる

中国在住5年目、歴史好き、現地採用32歳男性がリアルな中国を紹介し、一人でも多くの人の中国愛を育むことが使命

旧日本人租界地を歴史散歩してきました

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旧日本人租界地、虹口(ホンコウ)

 僕は歴史好きということもあり、「上海歴史散歩の会」という日本人の集まりに所属しています。先週末、そのイベントで旧日本人租界地である虹口を散歩してきたのでご紹介しますね。この虹口は、上海に来て間もない頃に一人で散策したことがあったのですが、有名な文化名人街↑や鲁迅公園を見ただけでした。しかし今回は専門家の方がいらっしゃったのでたくさんの発見がありました!

 ご覧の通り、虹口区は黄浦江に沿って市中心から北東に位置しています。戦前、日本人の半分以上がこのエリアに居住していたそうです。

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 〇魯迅が暮らした「景雲里」

 まず最初に訪れたのは、魯迅が1927年から約3年間をここで過ごしたという「景雲里」(横浜路 35 弄 23 号)です。日本人と強い関わりを持っていた文豪・魯迅がここに住んでいたのかと感慨にふけりながら門をくぐります。

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 なかなかのローカル感です。こういう昔ながらの風景は市中心ではどんどん少なくなってきています。別世界に来たようでワクワクする感じが好きです。

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 柵で塞がれてこれ以上進めなかったのですが、↓この右奥の部屋に魯迅が暮らしていたそうです。ここで何を考え、どんな暮らしをしていたのでしょうか。

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 ↓これは何の場所か分かりますか?あるモノを捨てて桶を洗う場所です。正解は・・・「ウ〇コ」です。独特の悪臭がしたので今でも当時と変わらず使用されているようです。つまり部屋の中にトイレがないんですね。魯迅は決して豊かな生活を送っていたわけではないことが分かります。

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 〇高級住宅、長春公寓

 魯迅寓居とは対照的な、多くの大手企業の日本人管理職が暮らしたという長春公寓。こちらは近代住宅の要素を備えた高級マンションだったそうです。今でいう、日系企業の総経理がたくさん住んでいる東和公寓(浦東)みたいな感じでしょうか。

 内山書店で有名な内山完造は、1931 年当時この住宅内で中国人向けの日本語教室を開いていて、魯迅が通訳を務めるなどしていたそうです。

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 〇余慶坊・金子光晴寓居

 長春公寓のすぐ裏手にあるのが、詩人の金子光晴が、1926 年春と 1928 年暮れから翌春にかけての 2 度の上海行のおりに投宿した「余慶坊」(余慶坊 123 号)です。金子光晴についての詳細はWikipediaをご参照ください。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%85%89%E6%99%B4

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 ここです、余慶坊 123 号と書いてありますね。当時はここの大家さんも日本人だったそうです。今のように高層ビルがなかったため、屋上からは外灘の建物が見えて、その絶景に感動したそうです。

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 狭い路地に40名ほどの日本人がひしめき合っているので、何事かと住民のおばちゃんたちが興味津々な様子でした。観光名所でもないローカルな場所を訪れる日本人はそうそういないでしょうからねw

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日本人創設の福民医院

 続いて病院に足を運びました。現在は第四人民医院ですが、当時は福民医院という、1924 年に日本人医師の頓宮寛(とんぐうゆたか)が創設した総合病院です。数人の日本人医師が勤務し、この地域におけるトップクラスの水準を誇る病院だったそうな。魯迅の長男・海嬰はこの病院で生まれたんですって!

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 立派な門構えです。日本人が作った病院が、時を経た今でも病院として機能しています。写真からも分かるように相当な規模です。

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北部第一小学校(上海第一日本国民学校)

 住宅、病院と続いてお次は学校です。虹口区教育学院実験中学(四川北路 1844 号)ですが、ここは1907年に上海居留民団立の小学校として創立された日本人学校だったのです!校舎・グランド・講堂・体育館などの施設はすべて最新式のもので、当時の校舎がそのまま現存しています。

 

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 どうですか!?112年前に作られた学校とは思えないですよね!そして何と今回は特別な許可を得て中を見学させて頂きました。

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 僕らにとって廊下の両側に教室があるのは一般的ですが、当時の中国では片側にしか教室がないのが一般的だったそうです。

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 教室にもそっとお邪魔してみました。天井が高いのが印象的でした。

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 そして凄いのがこの講堂です。普通講堂と言えば別の建物にあるのをイメージしますが、この学校では4階にあるんですね。そして立派な造りです。確かに日本を感じさせるものがあります。色んな学生がここで過ごして歴史を紡いできたんでしょうね。
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西本願寺別院

 1931 年に、岡野重久設計のインド仏教遺跡を模して作られた西本願寺別院(乍浦路 471号)。築地本願寺と似てますよね!?本堂正面の特徴的な円形彫刻は、インドの仏塔遺跡を囲む「欄楯(らんじゅん、聖地と俗界を区別する玉垣)」を写しているそうです。

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 今はディスコとして利用されているそうです。お寺からディスコって、一気に俗世化しちゃいましたねw。

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高級料亭、六三亭

 1900 年に白石六三郎が開業した、高級料亭である「六三亭」(塘沽路 346 号)。長崎出身の芸者数十人を抱えていたというからその繁盛振りが伺えます。中には日本情緒あふれる庭園があり、日本文化の象徴的な場所として政界人や上流階層の賓客接待の場としても使われたとのこと。1912 年 4 月に孫文が上海を訪れた際には、宮崎滔天らが盛大な歓迎会を開いたそうです。

 今はお世辞にもここに高級料亭があったとは思えないですね。兵どもが夢の跡~

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須藤医院

 退役軍医の須藤五百三(いおぞう)が 1919 年に開業した医院(峨眉路 108 号)。3階建ての2階に診療室があったそうです。須藤さんは晩年の魯迅の主治医を務めたことで有名なんですって。病院とは思えないオシャレな雰囲気に驚かされます。

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日本旅館、萬歳館

 1904 年創業の旅館(閔行路181号)。芥川龍之介も泊まった当時の著名な日本旅館。赤煉瓦の外装ながら内部は完全な日本式旅館で、来海した中・上流の日本人が利用客だったそうです。一番右側の屋根部分には当時搭があったそうですが、今は無くなってしまっています。

 僕らがガイドの説明を聞いている時、住民のおばあちゃんが部屋の窓から僕らに手を振ってました。微笑ましい限りです。

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総評

 現在、虹口を歩いていて日本を感じさせるものはほとんどありませんが、実は日本人が建てた建物が今も変わらずそのまま利用されているケースがたくさんあることが分かりました。先人たちの息吹を感じることができる場所です。また、この虹口は市中心に比べて古い建物が多くて、純粋に街歩きをしているだけでも飽きさせない景観に満ちています。ですがガイドしてくださった方によると、数年前にあった建物が今はもう取り壊されてしまったというケースもまた少なからずあるそうです。今もまた現在進行形で変わりつつあるのだと思います。今しか見ることのできない風景を大切にしたいですね!

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